昭和48年03月04日 朝の御理解
御理解 第12節
「神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ、空が神、下が神。」
お道の信心をさせて頂いたら、段々こゝのところが、実感として感じられるおかげを頂きたい、外へ出るもうそこには、天地金乃神様のお姿を、天地の中から、いうなら空を、地を拝ませて頂かねばおられん程しの、実感、これは外へ出る、内の中でヾも同じである、けれども、いわゆるお道でいう神観を教えておられるけれども、只金光教では天地を拝んでおる、とゆうような事だけが分かるのじゃなくて、実感として、これは私が、毎朝こゝの庭に出て、天地を遥拝致します。
天を拝み地を拝ませて貰うのですけれども、本当に何というですかね、天地の息吹というものを実感として感ずるです、もうこれだけでも長生きをするなあと、いう感じが致します。そこに天地の親神様のね、そこに息吹をこゝに感ずる、それが私はお道の信心をさせて頂く者が、その実感が段々強うなってくるというおかげを、頂かなければならない。 ですから今日は、そういう神観的なものではなくて、本当にそこに神様の声を聞く、神様の姿を見ると言う様な、信心の稽古というものが必要だと思うのです。
昨日は親教会の報徳祭でございました。こゝからも沢山お参りがありましたが、帰らせて頂いて、皆さんもこゝへ引き上げて見えられた。丁度四時の御祈念でしたから、四時の御祈念を頂いて、御祈念を終えて、こゝへ座らせて頂きましたら、まあだ残っておられる方が、秋山さん、原さん、波多野さん 三人が残っておられて、もう他の方はみんな御祈念中に帰っておられました。
四時の御祈念に御理解を頂く様な事はないのですけれども、こゝで四時の御祈念に頂いた事等、皆さんに聞いて頂いた事でございますけれどもね。惟は昨日の御理解の中でしたか、例えば金光様の御信心というものは、どこでも上下着けたと言う様な訳にはいけない、お広前におる時にはお広前の信心が有り、食堂に行ったら食堂の信心が有り、寝室に行ったら寝室の信心が有るのだと、寝室では寝間着だろうとそれぞれの形の上に於いても内容に於いても、それぞれの信心が有るのだという意味の事を頂きました。
昨日、あちらで御大祭を拝ませて頂き乍ら、何かこう気持ちがそヾろとでも申しましょうか、ピッタリこんのです、こんな事じゃ折角御大祭頂きよって、相済まん事だなあ、こういう時には、どういう気持ちにならせて頂いたら良いだろうか、と思わせて頂いておったら、御心眼に私が装束を着けて、やはり先生方と一緒に、お祭りを仕えておる姿を頂いた。そしてこの冠のひもが、ほどけておるところを頂いた。
そん時に私は、ハッと思わせて頂いた事は、成程、御神前に出てお祭りの奉仕をさせて頂いておるような心持ちで、拝まなければいけないなと、こう思いました。これは不思議です、装束を着けて御神前に出ますと、やっぱ違いますね、しゃんとします。皆さんもそうですよ、御神前で、そんならあらたまって、羽織の一つもひっかけて拝んでご覧なさい、もうそれだけで、気持ちが違います。
ですからあゝ本当に、自分も本当いうたら、私がお装束着けて出るのが本当だけれども、実際は下のお広前の方から拝んでおるけれども、あゝそういう気持ちだなと、思わせて頂いたから、やつぱ装束を着けた気持ちで、笏を持った気持でお祭中、その気分でおらしてもらいましたら、本当に有難い神様を、そこに感ずる事が出来ました。そんな話ども、皆さんに聞いて頂いたんですけれども。
それとてもそこにです、神様を感ずるでしょうが、だから神様を庭の口を外へ出て見よ、空が神、下が神、といわれても、あゝこれが神様ばいなあと、いうただけではなくて、そこに神を感ずる為にはですこれは、そんなら私が、どんな事があってもこれだけはきちっと、三時半にこの庭に出て来て、天地を遥拝する、そこのきちっとしたものがです、もうそこに天地の神様の息吹を、こゝに感ずるものを私は頂くです。
私のお話を聞いて頂いた後に、原さんがこゝへ出て見えてから、本当に信心ちゃたっぷり時間をかけれと、此頃先生が月次祭の時仰ったが、本当にお互い信心の時間ちゃ、たっぷりかけたいですねえ。どんなに忙しい忙しいというて、忙しさにかまけたら駄目です、まあ極端に云うならばです、五時間例えばかゝらなければ出来ない仕事でも、そんなら、それから信心の時間を、一時間少なくすると致しましょうか、四時間しか出来んけれども、よくよく後で考えてみるとです。
それは五時間したよりも、六時間したよりも、おかげになっておると言う事実をね、お互い体験しなければいけません。ですから、信心の時間というものは、たっぷり頂くこのお月次祭に、御神酒が百本からあった、大鰤が二本、いや実をいうたら三本だったけれども、出されなかった、鯛は大きな鯛が何枚もあった。そういう例えば、お供えがたっぷり有る程しの、お月次祭を頂かして頂いてです、皆さんに聞いて頂いたのが、お互いの信心の時間を、たっぷりとらにゃいけませんよ。
信心の時間をたっぷりとらせて頂いたら、だんだんおかげの方も、たっぷり頂けるようになるんだと 私がそんなら 信者時代にです、例えばもう本当に、まあ今日はどぶざらいが有るといや、私が居らん事はなかった、大掃除という時に、私がいない事もなかった、もうどんな場合であっても、さあそんなら、神撰室に御用があるというや、大坪さんがいない事はなかった。もうそれこそ、御結界の御用もさせて頂いた、御神米折りの御用もさせて頂いた。と言う様にです。
もうあらゆる面で、たっぷり信心の時間をとっておる、それが現在このようにです、たっぷりとしたおかげを頂く事が出来るのですから、只信心な拝み頼んどきゃ、それで良いと言う様なもんじゃない。いわゆる信心の稽古ですから、信心の稽古の時間を、たっぷりとらにゃいけませんよと、この一日のお月次祭に、そんな事を聞いて頂いた訳です。 そこにです、成程 たっぷりとしたおかげが頂けてくるようになるのだ。
先日から佐田さんの所のおじいちゃんの、お国替えでございました、それで久富組の車で、原さんと、それから久富くにかさんと便乗させて頂いて、お悔やみに行かれた、その帰りの事を、原さんがこゝでいわれるのです。お悔やみにやらせて頂いた帰りがけに、途中ですから、久富さんがさっち、その私の方のお店に寄りなさいと、ドライブインをなさっておられますから、これはまあ副業の様なもんですねえ、ですから私の方の店にちょいと寄りなさいといわれるもんですから、まあ遠慮なしに寄らせて頂いた。
そしてお茶でも頂き乍ら、いろいろ又、信心のよもやま話させて頂いておるうちに、テ-ブルの上に、ドライブインに行くとどこにも有りますが、おみくじのようなものが有りますが、それを三人で引かせて頂いたという訳です、もう恐れ入ってしまいました、三人が三人、今、私共が頂かなければならない事、感じておる事が、おみくじの中に出て来るじゃないですか。
例えて申しますと、久富くにかさんの引かれたのは、 今は人が変人というたり、馬鹿んごと云いよるけれども、あなたの正直が必ずものをいう時期があるから、辛抱せろとゆう意味の事が書いてあった。皆さんも御承知のように、久富くにかさん、勇さんが一家をあげてあのような修行に、直面して居られます。本当に信心の薄い者は、あげんとこういう位である、もう信心の無い者なんかは、それこそ変人というより、馬鹿んごといいよるに違いはない。
私はそれを聞かせて頂いて、胸がいっぱいになりました。本当に、神様がそこに、ものをいうて下さっておる感じがするでしょうが。 次には、私の事でしたけれども、永い辛抱がね、もうお金でもあんまり不自由せんで済むごとなると言う様な、おみくじが出たとこういう。もう原さんが二十数年間信心をなさって、あのようなおかげを受けて居られた。というて、今、例えばお金でもたっぷり有るとゆう事ではないのです、けれども段々と、たっぷりおかげが頂けてくるようになる。
辛抱がものいう時が来ると言う事が書いてあった。久富みつかさんの方は、もういつもが、子供さん達の事が中心です、子供の難儀を見ては居られない、そこで子供達が、云うなら、おかげを頂くようにというのがもう、このお母さんの、信心の中心をなしておるのは、いつも子供の事。ところがそれに、いくら子供でもね、実際は頼りにならんと言う事が買いちゃった。
勿論、頼りにならんと言う事は、つまらんと言う事じゃなくて、信心させて頂くならば、どんなに素晴らしい、よか息子がおっても、よか娘がおっても、それに頼っちゃならん、頼れるのは神様だけなんです。それでも親として、子供の事を願わん親はありますまいけれどもそれに頼っちゃならん、すがっちゃならん、と言う事なんです。例えば、三人三様ですけれども、そこに日頃心の中に感じられておる事を、それに対する答のように、神様がもの言うて下さる事を私は今日は。
そこんところを、神に会いたいと思えば、と言う所を、神の声を聞きたいと思えば、とゆう程しの実感とゆうものをね、そこに頂かなければいけない、と言う事を、聞いて頂いたんです。そこに神様の姿を見る思いがする、只、空が神、下が神、あゝそうかなと言う様な、観念的に神様を分かるというのでなくて、そこに、私の朝の三時半に、天地を拝む時に、もうそこに神様の息が、これにかゝってくる思いがする、その息吹をそこに感ずる、生きた神様の息吹を感ずる。
例えば、原さんやら久富さん辺りがです、そのように、本当に自分の心の中に、思うておる事に対する答を、神様が言うて下さる。これは自分の心がです、誰でもそうとゆう事じゃ有りません、けれども、心を神様へ、そのように向けておるとです、神様が子供の泣き声の中からでも、流行り歌の文句の中からでも、神がもの言うて聞かすと仰る。問題は心を神様へ向けておかなければならないと言う事です。
まあそんな話をしておるところへ、秋山さんところの、福岡に縁についております娘さん達が、御主人と一緒に、あるお願いがあって親子四人連れで参って来た、そうゆう時間にですよ。「あらぁ」と言う事です。そして秋山さんが言われる事ですよ、本当に信心の時間とゆうものは、たっぷりとらにゃいけんと言う事。私が、先生の四時の御祈念が始まるけんと言うて、帰っとったら娘やら、娘婿達やら孫達と、会う事も出来なかった。ほんに例えばそれが、どうと言う事じゃないけれどもです。
成程、信心の時間をたっぷりとるとゆう事は、だからそこには、そういう形に於いて見えるおかげはないにしても、目に見えないおかげが、たっぷりとったところには、たっぷりおかげの頂けれる元というのは、どんどん出来ていきよる。だからそれを信ずると言う事、信心とは。今日はたっぷり信心の時間をとったけんで、もうすぐにたっぷりおかげが形に表れると言う事じゃない、けれども、たっぷりと信心の稽古をさせて頂いた事は、もう、たっぷりとおかげの頂けれる元が目には見えないけれども。
出来ておるんだと、信じる所にです、
だから昨日、残られた三人のうち秋山さんだけが、たっぷりおかげを受けたと言う事じゃない、形に見えたと言う事。波多野さんだって、原さんだって、おなじおかげを目に見えないところに、頂いて居られる筈だと言う事を、信ずる事が信心です。そこに神の姿を、いわゆる神の姿を見、神の声を聞き、神の息吹をこゝに感ずる、同時に神の働きを、そこに感ずる事が出来る。そこから初めてです神様を、いわゆるどこへおっても神様を感ずる、天地を拝ませて頂く。
いわゆる外へ出て見よ、空が神、下が神と仰るが、本当に天地の御守護の中に、いつも有る実感とゆうものが、いつも有難いと言う事に なってくるのじゃないでしょうか。 ところが人間生身をもっとりますから、どういう調子やら分らんけれども、もう本当に神様が、昨日南久留米の先生の説教がありよりましたが、信心不在、神様不在といった話をなさっておられました。私共信心はしよっても、神様不在のような、感じのする時がありますけれども、そこんところをです。
私が昨日、御大祭を頂き乍ら、感じたように、あゝこんな事じゃいかん、折角大祭頂きよるのに、こういう うつろな気持ではいけんと、思うたら神様が、お前自身が神前に出て、御大祭を仕えてるような気持でと、こう頂きましたから、ほんにそうだと思うて、形の上で装束を着けたような気持、笏をこうやって持った気持で、拝ませて頂きよったら段々有難うなってきたと、言う様な事を聞いて頂いた訳ですね。
どうぞ。